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2011-01-16

2011/01/ 16 (日) 退院丸4年 退院後のネオーラル処方の経緯

 お陰様で、退院後丸4年を迎えた。骨髄移植Day 1,530になる。

 最近、殆んどブログ更新をしていないが、免疫抑制剤(immunosuppressant)のネオーラル(Neoral)は1年前と変わらず、9時と21時に各25mgずつ服用中だ。

 今回も、退院から今迄のネオーラルの増減をまとめておこうと思う。
・ 2007.01.16退院直後時点: 125mg/日 (朝75+夜50mg)
・ 2007.01.29時点: 100mg/日 (朝50 +夜50mg)
・ 2007.02.27時点:  75mg/日 (朝25 +夜50mg)
・ 2007.05.14時点:  50mg/日 (朝25 +夜25mg)
・ 2007.10.01時点:  25mg/日 (朝25 +夜 0mg)
・ 2007.10.30時点:  0mg/日 (朝 0 +夜 0mg)
・ 2007.12.27時点:  50mg/日 (朝25 +夜25mg)
・ 2008.06.02時点:  25mg/日 (朝25 +夜 0mg)
・ 2008.10.07時点:  50mg/日 (朝25 +夜25mg)
・ 2011.01.16の現在も50mgのままで、丸2年15週間経過
※2007.12.27と2008.10.07に50mg/日に戻っているのは、ネオーラル減量が原因で始まった肝機能値(liver function)の悪化が止まらなかった為である。

 手の急なこわばりの治療の為に飲み始めたステロイド(steroid)のプレドニン(Predonine)の量は、2009年8月25日に10mg/日から服用開始し、2010年2月3日から徐々にその量を減らし始めてきていたが、2mg/日になったあたりで肝機能値が不安定になってきた為、現在減薬が2mgのまま停滞している。

 もう自分以外にこの日が退院日だったという事に気付く人はいないだろう。それでも、無事にこの日を迎えられた事を祝うべく、亡き父のブランデーで一人祝杯をあげる。やはりとってもうまい。。。

 肝機能値が不安定になってきているのに、何かに付け理由を付けては飲もうとする所が酒飲みの悪い所かもしれないが、美味しくて幸せになる。体の痛みも少し和らぐ気がする。願わくば、大酒飲みだった母親の『鉄の肝臓』も自分に遺伝して欲しかった所 (自分は母程お酒に強くない為) だが……等と思いながら、昨年同様、両親の写真にも報告。。。ありがとう☆

2010-01-16

2010/01/ 16 (土) 退院丸3年 退院後のネオーラル処方の経緯

 お陰様で、退院後丸3年となった。骨髄移植Day 1,165日になる。

 退院時の主治医の説明では、上手く経過すれば半年後に免疫抑制剤(immunosuppressant)のネオーラル(Neoral)を零に出来るだろうと言っておられたが、まだネオーラルを9時と21時に各25mgずつ服用中だ。先生の希望的観測は、免疫抑制剤の点では、上手く経過していないという所なのだろう。

 そこで、退院から今迄のネオーラルの増減をまとめておこうと思う。
・ 2007.01.16退院直後時点: 125mg/日 (朝75+夜50mg)
・ 2007.01.29時点: 100mg/日 (朝50+夜50mg)
・ 2007.02.27時点:  75mg/日 (朝25+夜50mg)
・ 2007.05.14時点:  50mg/日 (朝25+夜25mg)
・ 2007.10.01時点:  25mg/日 (朝25+夜 0mg)
・ 2007.10.30時点:  0mg/日 (朝 0+夜 0mg)
・ 2007.12.27時点:  50mg/日 (朝25+夜25mg)
・ 2008.06.02時点:  25mg/日 (朝25+夜 0mg)
・ 2008.10.07時点:  50mg/日 (朝25+夜25mg)
・ 2010.01.16の現在も50mgのままで、丸1年15週間経過
 2007.12.27と2008.10.07に50mg/日に戻っているのは、ネオーラル減量が原因で始まった肝機能値(liver function)の悪化が止まらなかった為である。ちなみに、昨年中頃に急に出始めた右手のこわばり(stiffen)が酷くなり、治療の為にステロイド(steroid)のプレドニン(Predonine)を2009年8月25日から10mg/日服用開始している。

 骨髄移植(bone marrow transplantation;BMT)を受けた人で、免疫抑制剤を零迄に減量した後、生涯飲まなくて済む人もいるというのだが、自分の場合、フルマッチの実姉からの骨髄移植だった為、主治医もそれを目標としておられたのだろう。

 自分はと言うと、移植前に色々と医者から説明を受けていたが、移植直後から起こり始める様々なGVHD(急性GVHD)を実際に体験し、退院前後から慢性GVHDと思われる症状が見られ始めていた。当然全てが未経験の事。それ故、免疫抑制剤が零になる頃には全て治まるのだろうと信じていたが、現実はそう簡単に済むものではなかった。しかし、もう後戻り出来る訳ではない。

 目下、私にとって免疫抑制剤減量は50mg/日が一つの壁となっている様だ。一方で、肝臓等の臓器移植(organ transplantation)の人は一生涯免疫抑制剤を飲み続けなければならないというのだから、薬を零にする可能性のある骨髄移植患者の自分は幸運と考える方が、精神的にもいいと考える様にしている。

 慢性GVHDも、時と共に一つ一つ良くなっていくと信じていたのだが、良くなる症状もあれば、思いもかけず急に新たに現れるGVHD(移植片対宿主病;graft-versus-host disease)もある。最近富みに体が痛く辛いという傾向が強くなってきている様にも思うのだが、通勤(勤務)を続けて来て疲れがたまって来ているのだろうと思う事にしている。

 免疫抑制剤を減薬出来ない原因は肝機能検査値不良なのだが、久しく改善しなかった肝機能値がステロイド効果で正常値に改善している。次回通院あたりからステロイドの減薬を開始しようと主治医から言われているが、それがきっかけでまた悪化する可能性は十分ある。心おきなく(??)お酒を飲めるのは今のうちだ。

  先ずは、無事にこの日を迎えられた事を祝おうと、畳んでしまったS学院の実家から持って来た、父の遺品のブランデーを開けて一人祝杯をあげた。何年振りだろう、ブランデーを飲んだのは…… とってもうまい。。。両親の写真にも乾杯して報告した。父も母も笑っている。。。ありがとう☆

2009-03-27

2009年03月27日(金) 入院後丸3年

 今日で、あの緊急入院から丸3年となった。

 あの当時、少し歩くだけでもすぐに脈拍が100以上になり、いよいよ“おかしい”という思いから『これは異常だ』と感じ始めた頃だった。折しも、丁度、記念すべき第一回ワールド・ベースボール・クラシックが開催されていて、連日の熱戦を、普段余り野球を見ない自分もつい魅せられて、母と共にTVの前で応援していた。

 熱戦は二転三転した後、日本が劇的な初代優勝を飾り、世界一になった映像を見終わってから、初めて母に、最近の自分の体調異常を打ち明けた。その後の事は【生亜紫路2006】という方のブログに書いている(未だ完成していないが)。

 ところで、ワールド・ベースボール・クラシックは英語でWorld Baseball Classic、略してWBCと書く。WBCと言えば、私の病気にはおなじみの血液検査項目の中にもあり、白血球(white blood cell;WBC)数の事をWBCと表記する。このWBCの数が少なくなると感染(infection)し易くなる事から、病室からも余り出ない様にと先生から注意されていたのだが、長期入院していると、見舞いに来た人から「WBCって何?」と聞かれる事がよくあった。そんな時は一言一言をゆっくりと
「W・B・C、これはね、ワールド・ベースボール・クラシック…、の略ですよ☆」
と答える事にしていた。神妙な面持ちで私の説明を聞いていて、皆、途中で、「ええ~~!!」と反応するのが面白かった。もちろん「というのは冗談で……」と、本来の意味を教えたのは言うまでもないが、これでその場が一気に和むのが良かった。

 自分は幸いな事に、今も無事に過ごせています。ありがとうございます。病気と闘っている人も、どうぞ、穏やかにいい時が流れます様に☆

  お母さん、安心しておられますか? 感染症にも罹らずに、今日を迎える事が出来ました。今年もWBCが開催され、また日本が世界一になりましたよ。また一緒に観たかったですね。。。

2008-11-14

2008/11/11 (火) 難しい見舞いの言葉

 ドラマ『白い影』が再放送されていて、久しぶりに見ている。原作は渡辺淳一の「無影燈」で、かつて母に勧められて読んだ覚えがあるが、昔の事なので、詳しい内容はあまり覚えていない。ただ、自ら医者という経歴を持つ渡辺淳一の医療を扱った小説は、非常に良く出来ているという母の言葉通り、医療を題材にした作品は、どれも面白かったという記憶はある。

 物語は、若い医師が、主人公である直江医師のやり方・考え方に反感を覚えながら、次第に直江医師の人間性に惹かれていくのだが、実は直江医師自身末期癌に侵されている事を隠して医師として患者の治療に当たっている、というストーリである。物語の伏線として、ある末期癌患者が登場するが、どれだけ病状が悪化してきても、直江医師は患者に癌(cancer)で余命幾ばくもない事を告知せず、「悪い所は全て取り除きました」といって接し続ける事に、若い医師の方は、何故本当の事を患者に教えないのかと反発しているという所があった。昔は「癌=死」というイメージが強かった。現在では癌の治癒率が高まり、癌告知はかなり多くなった様に思われるが、原作が書かれた当時は、確か、医師が患者に癌告知するか否か、深刻な問題であった時代だったと思う。そのTV版を漫然と見ていたのだが、ふと、次のセリフが耳に留まった。

 若い医師がその末期癌患者と会話を交わし、(取り敢えず)元気そうなのを確認してから、「頑張って下さいね」といって病室を去ろうとした時、患者がぽつりと「直江先生ならいつも『大丈夫ですよ』と声掛けをして下さる。」「病院の人はみんな、頑張れ頑張れというが、患者は皆、言われなくても、みな頑張っているんですよ」と言われ、その言葉に若い医師がハッとする、そんな場面であった。

 これと似た話は、時々聞く事がある。例えば、「がんばって」と言われるより、「辛いね…、苦しいんだね…」と相槌を打ちながら、話を聞いてくれた人がいて、辛さが和らぐ程とてもうれしかったという話も聞いた事がある。もちろん、十人十色という言葉がある様に、この「がんばって」という言葉を励みに闘病に励まれる人も多いだろうから、全てにおいてこの言葉を悪いと考えているのではないが、この様に「頑張って」と言われるのが辛いという話は少なくない様だ。これが別に病人に限った事ではないと知ってからは、不用意に「がんばって」という言葉を使わない事にしようと思う様になった。しかし、医者でもない私が「大丈夫ですよ」とか「大丈夫、大丈夫」等と声をかけるのも、なんだか無責任な感じもするので、状況をよく見極めた上で、その言葉を使っていいかどうか判断した方がいいかもしれない。

 晩年の母が時折「見舞いに来てくれる人の心遣いは嬉しいが…、皆が皆、『元気そう』といってくれる気持ちも分からなくないではないが…、この何とも言えない痛さ、だるさというのを本当に理解してくれる人は少ない…、時々何ともやりきれなくなる」といった内容をぼやいていた事がある。まだ癌になる前の、別の病気での自宅闘病中の事である。もちろん母はその事をわざわざ見舞いに来てくれる人にそんな事を言う気もない人で、私にも心配かけまいと、簡単に弱音を吐かない人であったが、余りに痛みが続くらしい時等に、つい、ぼやきの様に私に話す事があった。「この痛い、というのは表面(顔・表情など)から見えないから仕方がないけれど…」と。この話を聞いて、当時頭では理解していたつもりだったが、自分も病気をして以来、まだまだ理解の度合いが足りなかったなと感じる。副作用(side effect)といえばいいのかGVHD(移植片対宿主病;graft-versus-host disease)と考えればいいのかよく分からない、この持続する痛み(それでも母が経験していた痛みと比べると、はるかにはるかに軽いと思われる)に悩まされる様になって初めて、今なら、もっと母の気持ちを理解してあげられただろうに、と思ってしまう。だから、『元気そう』という言葉も不用意に使わない様にした方がいいなと思っている。でも、そうなるとどんな励ましの言葉があるだろうか、なかなか難しい…。

 「頑張って」とか「元気そうで良かった」という言葉は、心底心配してくれている人が、見舞った相手の元気そうな顔を見て安堵して、心から喜んで発してくれるお見舞いの言葉なのかもしれない。私も入院中から現在に至るまで一杯かけて貰った言葉で、わざわざ見舞ってくれた事が嬉しく、ありがたく受け止めていた。ただ、どうしても嫌な言葉があった。「前向きに頑張って」とか「前向きに考えよう」という言葉だ。私を励ますつもりで発せられた言葉とは十分に分かってはいるのだが、こう言われると、なんだか自分が病気に対して後ろ向きで、治療にもちゃんと向き合っていないと言われている様な気がして、内心、耐えられなかった。日々体が不自由になる母の為にも、一日でも早く退院出来る様にと必死に励んでいるのに、それを全否定されている様に感じてしまうからだ。さすがに、一番自分の状況を理解してくれている筈の母からこれを言われた時ばかりは、つい毒づいてしまった事がある。母をいたわるどころか悲しませてしまった事が今でも悔やまれる。もしかすると、思いもかけない病になってしまった娘の事を、絶対に治ると母自身“前向きに前向きに…”と言い聞かせながら日々お祈りしてくれていて、それが言葉になって出たのかもしれない…。

 その一方で、今や「元気?」「大丈夫?」等と聞かれる立場になった自分はというと、その心配してくれている心遣いに対して、いつも感謝の言葉を返し、要らぬ心配を掛けない様にしている。ちょっと話はそれるが、関西には便利な言葉があり、例えば「儲かってまっか(もうけている・かせいでいる)?」と訊かれたら「ぼちぼちですわ」というのがある。この「ぼちぼちです」のイントネーション(発音や言い方)次第で、『儲かっている』と『かなり苦しい状況(儲かっていない)』の両方を表現出来る。なので、かなり近しい人から「元気にしてる?」等と聞かれた時は、よく「ぼちぼちやってます」(私の場合、「ぼちぼち無事に暮らしています」という意味合いを込めている)と返事する事も多い。

  未だ、誰かを見舞う時等、どの様な言葉を掛けたらよいか、悩ましい所であるが、直江先生が言った「大丈夫ですよ」という言葉、何とも心に響く思いがした。

2008-10-02

2008/09/22 (月) 久々の飲み屋

 この日は診察日だった。実は先月からこの日は、このままK都に泊まって、飲み屋に行こうと決めていた。

 飲酒に関しては春先に、時々自主解禁する事に決め、先生にもそう宣言していた。それでも検査に響いてはいけないと思い、診察日から3~4日は缶ビールを楽しんで、次の通院日まで禁酒をしている。なので、最近では、次の通院日が、ある意味、楽しみで待ち遠しくなっている。しかし、再度(再々度か?) 肝機能(liver function)の悪化の兆候が出始めたので、ビールは通院日の1日ないし2日位に減らしていた。先月は更に悪くなる気配がみられ、これ以上悪くなる様なら、またしばらくの間、飲めなくなるな(飲まない方がいいな)と思ってはいる。その一方で、一晩飲み歩きをしてみたいとずっと思っていたので、これ以上肝機能が悪くなる前にと、今回実行に移したのだ。

 退院後「飲める様になったら、どこか飲みに行きましょう」とずっと誘ってくれていた友人がいる。底なしの酒のみである。その人に先月メールをして、飲み歩きに付き合って貰う事にした。時々自主解禁して飲酒している事も、私の現在の状態等も伝えてあり、それを承知の上で飲みに行きたい旨を伝えていた。そして宿まで予約して通院に来ていたのだが、今回こんなに上がるとは思わなかった(昨年末に比べると上昇具合はまだ緩やかではあるが……)。肝臓の為を考えるのなら、先月の診察日に合わせて飲みに行く計画を立てた方がまだしも良かったのかもしれないが、こんな勢いで数値が上がると思っていなかった。

 診察後、先生には、今日は飲みに行く事にしていると報告したが、GOTもGPTも100前後なので、当然困ると言われる。そう言われるのは自分でも分かるのだが、検査値が倍増するとは想定外だった。「前回の時点で、次は良くなるか或いは(先月の状態で)現状維持する事に期待して、先月から飲みに行く約束をし、もう宿も予約して来ている」、と先生に伝えた。先生は「う~ん……」と小さく唸っておられたが、特に何も言われなかった(相変わらず不良患者ですみません)。

 さて、18時過ぎからK都の街へ繰り出し、かつて母やそのメンバーと飲みに行った事のある懐かしいビアホール、あるフィギュアスケート選手に似たマスターのいる立ち飲み屋、現代作曲家でロックギタリストでもある人の名の付いた怪しの居酒屋等を梯子(はしご)し、久々に楽しかった。梯子したと言っても、好きなだけ飲むのは自粛し、殆んどビールだけにして、強いお酒は飲まない様にしたが、6月の北海道一人旅の折、一人で飲んだビールよりもずっとおいしく感じた。ビールを一杯飲んでは次の酒場へというのが、とにかく楽しかった。

 昔はよく母と飲みに行ったものである(父もたまに連れて行ってくれる事があったが…)。今は亡き母は大酒のみであり、私がまだ未成年の頃から、色んな飲み屋に連れて行ってくれた。母の仲間達と宴会を開く事もあったが、皆よく食べ飲んだ。私は残念ながら母の様な大酒のみの“鉄の肝臓”を受け継がなかった様だが、母と飲むとか、皆で豪快に飲んで楽しむ、そんな飲み会が大好きであった。もちろん、家で一人酒も好きである(毎日好きなだけ飲んでいた)。

 私の主治医の方針では、「免疫抑制剤服用中は飲まない様に」で、私の場合は、退院後半年位で免疫抑制剤(immunosuppressant)の服用も終了するのではないかと考えておられた。私もその日を待ち望んでいた。そして、退院後に会う人の多くに「もう飲める様になった?」と聞かれるので、心置きなく飲める様になったら(つまりお薬から解放されたら)、いよいよ復帰時期かなと考えていた。しかし、減薬すると肝臓にGVHDと思われる反応が繰り返し起こるので、なかなか免疫抑制剤と“さよなら”する事が出来ないのが現状だ。
※今現在の心境としては、なかなか免疫抑制剤から解放されそうにもないので、今の最低量(25mg)で検査値が落ち着いてきたら、免疫抑制剤を飲みながらでも職場復帰出来たらよいかな、とも考える様になってきている。

 お医者さんによっては免疫抑制剤を服用していても飲酒は大丈夫という先生がおられる(但し飲み過ぎなければとの事だが)ので、せめて、「余り飲まない様に」と、方針を変更してくれないかと思うのだが、主治医から、はっきりとお許しが出ない。許可が出ないので、いくら(時々)自主解禁にしたとはいえ、心底おいしく飲む、という気分には至らない。それでも、たまに飲むビールはおいしく、とてもいい気分転換になる。

  今宵はよい酒であった。次の通院日も家で缶ビールを飲みたいものだ。その為にも、「次回の検査では、今度こそ、持ちこたえてくれよ、我が肝臓君!」と自分で肝臓を叱咤激励している。

2008-08-27

2008/08/25 (月) 通院記録 更に微妙に…

 ここ数日、急に暑さがおさまり、昨日は肌寒い位であったが、今日は通院日である。血液検査の値は、4月頃にほぼ正常値になって以降、順調に経緯しており、6月の初めに免疫抑制剤(immunosuppressant)のネオーラル(Neoral)を1日1錠(25mg)に減薬されていた。ところが前回(4週間前)、微妙に肝機能検査値が上昇しており、減薬の影響かどうか、様子を見る事になっていた。

 さて、前回通院日から今回迄の体調は、例によって、ほぼいつもと同じである。頸、指、のど、腰の痛みは毎日で、頸が特に辛く、膏薬(plaster)を貼る日が多い。痛み止めを増やして貰えないので我慢しているが、膏薬は貼らないよりは、やはり貼った方が良く効くらしく、随分楽になるので、最近膏薬を再開し、良く貼っている。余りに貼り続けると、皮膚がかぶれてしまいそうなので、そこが悩みどころであるが。。。その他は、膝、肘、時に腕関節も痛み、全身筋肉痛(myalgia)の様な時もある。これらはだいたい朝一番が一番きつく、徐々に慣れてくるといった感じである。

 だるい・しんどいといった疲れやすい(易労感)のも毎日の如くで、これはほぼ一日中続くので、なかなか厄介である。

 脚の攣りやこむら返り(twist、leg cramp)は、頻繁に起こるが、殆んど起床時のみの事が多い。時にきつく起こる事があるが、通院日の最中に起こると、高速での運転が非常に心配になるので、処方されている芍薬甘草湯(こむら返りに効くという漢方)を、日々飲む薬と共に、常に持ち歩いている。「これって本当に効いているのだろうか」と思いつつ、あのひどいこむら返りが起こった時は、気休めでもいいから、とにかく飲む様にしている(速効性が余り無い様な気もするのだが……)

 右耳がボーっとする現象もまだ頻繁にある。嚥下(deglutition)時の違和感も時々起こるが、最近、いつもムカムカして、喉の奥に何か引っ掛かっている感じのする日が多くなった。別に吐く訳でもないのだが、食前・食後に関係なく、水を飲んでも嚥下途中で、ぐっと喉のあたりで留まる感じがする時がある。

 8月6日頃から、毎日の自主リハビリ(rehabilitation) (階段昇降をしている)での上りが非常に辛くなって、しんどい日が続いたが、自分に言い聞かせて、なんとか続けている。最近少しだけマシになってきたので、夏バテだったのかもしれない。

 さて、今回の肝機能(liver function)の血液検査結果は、前回よりもまたやや上昇していた。上がり具合は緩やかではあるが、またまた免疫抑制剤減薬の可能性がかなり濃厚になってきた。先生は、「なかなか減薬出来ませんね……もしかして、ウルソ(Urso)を止めにしたからか…」とか、何やら話されておられていたが、私は免疫抑制剤の影響が一番強いと感じている。ウルソを再開するのかと思って聞いていたら、「何かもっと薬を減らせないか」と言われ、ミコシスト(Mycosyst)を止めてみましょうとKB先生。

 ミコシストはカビ(molds;Fungi、真菌)による感染症(infection)を治療する(私の場合は、予防する為の)薬であるが、免疫抑制剤のネオーラル(Neoral)の効果を強める効果もあると説明された。すかさず私は、免疫抑制剤服用中に食べるのを禁止されている、例えばグレープフルーツの様なものなのか(免疫抑制剤の効き目を強くしてしまう性質があるので、禁食となっている)と訊くと、それと同じらしい。【※ミコシストには、ネオーラルの様なシクロスポリン製剤の血中濃度を上昇させるという報告がある。血中濃度を上げるという事は、言い換えるのなら、本来処方されているシクロスポリン(cyclosporin A;CyA)の量で予想される血中濃度より、実際は体内でより多くのシクロスポリンが作用している状態になってしまう、と考えたらよいだろうか。】でも、ミコシストによって、もしかしたら免疫抑制剤の血中濃度が高くなっていた可能性があるのを、ミコシストを止める事によってその可能性を無くすのだから、実際は、免疫抑制剤のネオーラルの現状維持か、減薬方向と考えられるのではないのだろうか? 

 先生は、カビ感染の心配は、移植(transplantation)して2年近くも経つので、多分もう大丈夫ではないかという判断で、免疫抑制剤の影響も減らそうという方針らしいが、ネオーラルを減薬したせいで肝機能の値が悪化した可能性が高いのに、どういう考えでそうされたのかが、良く分からない。今回、非常に悪化していたのなら、この変更に対しても、先生に色々質問を投げかけただろうが、こういった微妙な動き方なので、私も『まあ、これで、また4週間様子を見るか』という気分になってしまう。

 また、要らぬ事に、私が、「今晩はまた久々に一杯します」等と先生に言った為かどうかは知らないが、いつもなら「困ります」とか言われるのに、今日は、(私の)肝臓自体がもともと弱かったのではないかといった内容の事を言われてしまった。言いたい事は一杯あった。化学療法(chemotherapy)での抗癌剤(anti-tumor agent)投与や移植等によって、非常なダメージを受けてしまう(特に移植前処置の放射線治療によって肝臓を含め、内臓等に非常なるダメージを及ぼす)事は周知の事ではないか。 ~~(中略) ~~ それをここ今に至って過去の飲酒が原因の一つの様に言われるのには納得しかねる所があった。しかし、そんな話をしても仕方がないので、「先生、免疫抑制剤を減らしたので、移植由来のリンパ球が、(免疫抑制効果を減らした分)私の肝臓を異物だと思ってまた攻撃を開始しているという事ですかね?」と訊くと、「そうですね。お姉さんのリンパ球(lymphocyte)は、何かあなたの肝臓に恨みでもあるのでしょうかね?」等とKB先生。先生が珍しく冗談を言われた?! 予想外の返答に、まさか「姉も大酒のみです(今は知らないが)」と答える訳にもいかず、またまた頭の中に色んな思いが巡り、どう返していいのか困惑し、「そうなんですかねー??」と私。

 まあ、これだけ元気なリンパ球なら、尚の事、早く免疫抑制剤を中止にして、まだ私の体内に残存しているかもしれない白血病細胞(leukemia cell)をこのリンパ球に攻撃させて退治するというGVL効果(graft-versus-leukemia effect)をもっと強力にしたいと先生は望んでおられるのかもしれないが、こうも敏感に私の肝臓が反応してしまうので、なかなかゼロに持っていけないというのが現状なのかもしれない(白血病細胞撲滅前に私の肝臓自体がやられてしまったら、元も子もない)。

 その他では、体重減少が無いか問われた。多分嚥下違和感に関して聞かれたのだと思ったので、最大1kg以内で安定している事と、ムカムカしても吐くという事は未だに無い事を伝えると、これも経過観察となった。また、毎回同じなので報告する内容を遠慮して言わなかった関節痛等、一応言葉にして伝えると、先生は、「まだ肘や膝も痛む日があるんですか…、筋肉痛もあるんですか…」と言っておられた。この言葉を聞いた時、今更ながら、先生は多くの患者さんを見ておられるので、私の日常全部を把握出来る訳ではないという考えてみれば当然の事を、そして全ての症状はGVHD(移植片対宿主病;graft-versus-host disease)が原因と思っていたが、薬の副作用(side effect)である時もあるかもしれないという事を感じ、今後は、たとえ毎回同じ内容であってもいいから、診察時にはその時の症状を全て話した方が良いだろうと思った。

 さて今回は、9月末に切れる欠勤届を延長するのに必要な診断書をお願いしなければならなかった。先生には、もう復職しても大丈夫なのではと言って貰えた。実は、ここしばらくずっと検査結果が良く、ネオーラルを減薬して1ヶ月後の値も安定していたので、このまま安定が続く様ならば復職を考えてもいいと思い、9月末頃がいいかもと考えていた。

 減薬した状態で次も安定していたら、いよいよその旨をボスに報告しようと考えていた先月、期待に反して、肝機能値に不安な動きがあった。その為、当初の予定とは文章を変え、肝機能値に嫌な動きがあったが、去年の悪化時よりは体力も付いてきていると思うので抑え込む事が出来るのではないかと思っている事、そしてこのまま何とか悪化せずに値が安定したら、復職を考えている事を報告していた。しかし、夏バテも重なってか、この8月の体調を考えると、またちょっと自信が無くなってきてしまっており、今日の更なるこの微妙な上昇である。先生は、GOT(※)が100位でも復職している人もいると言われるが、それを言うなら、私自身、白血球(WBC;white blood cell)数が8万近くなっても(正常値上限は9,000個)、なんだか変だと思いつつ働き続けていた。人間の体は強いものだというのは分かるし、これ位の少々の動き程度なら、どうって事ないと今では思っている。
 ※ GOT (glutamic oxaloacetic transaminase:グルタミン酸オキサロ酢酸トランスアミナーゼ) = AST (アスパラギン酸アミノトランスフェラーゼ) の事。

 しかし、この数字には表れない体のだるさ・しんどさは、人が見ても、外見からではわかっては貰えないしろものだ。こんな症状を良く分かっておられる筈の先生にも、やはり私のこのしんどさ・だるさを、真には分かって貰えていないのが寂しい。肝機能値がこのまま、また上昇を辿れば、数値に比例した易労感(疲れやすい)も加わるのは必至である。私は復職後にそんな状態になる事を恐れてもいる。第3者にはそれを怠けている・甘えているとかしか見て貰えないのではないかという不安もある。これは同じ経験者でもない限り、(見た目は元気そう・普通そう・何でもなさそうにしか見えない事が多いせいか)なかなか理解して貰うのは難しいという事は、良く聞く話で、自身もそれを感じている。また自分も、晩年の母のだるい・痛いを一番理解していたとは思っているのだが、母よりも症状(だるい・しんどい)が軽いだろう自分でさえ、実際こんなにもしんどいものなのだから、母はどんなに我慢していたのだろうかと思うと、切なくなる。えてしてこういうものであるという思いから、とにかく復職で失敗はしたくないので、慎重に復職したいと考えている。

 先生には、ボスに復職に関して話をし始めている事と、夏バテなのか、この10月初めからの復職に自信が無くなった事だけを伝え、取り敢えず長めに年末までの診断書を書いて貰った。

 とにもかくにも、免疫抑制剤を続けているせいか、肝機能値が昨年末の様に急激な上昇をしなかったので、良かったと思う。ミコシストを減薬(ゼロに)して1歩前進である。次回は、このまま維持か、改善しています様に。

【血液検査の結果】8/25:
WBC(白血球数) 3.6、HGB(ヘモグロビン) 11.1、PLT(血小板数) 172、
GOT(AST) 48(高)、GPT(ALT) 48(高)、γ-GTP 47(高)、LDH 214、AMY 131(高)

2008-08-21

2008/08/21 (木) Google 地図

 おなじみGoogle検索のオプションの中に、『Googleマップ』という、地図検索がある。

 これの凄い所は、好きな所を入力して、知りたい場所を検索出来る他に、地図の右上部にある‘航空写真’という所をクリックすると、写真版になって現われる所である。例えば「凱旋門」とか「ベルサイユ宮殿」、「東京タワー」等と入力し、アップを続けると、路上のバスや車、人影まで見分けられるほど近寄れる(場所によっては最接近出来ない地域もあるが…)。これで、半年程前にもアクセスして、かつて住んでいた家を、この地図で探して眺めていた。

 今朝というか、昨晩、なかなか寝付かれず、結局2時間も眠れずに目が覚めてしまい、諦めて起床し、早朝からPCでインターネットをしていて、また家を見てみようと思い、アクセスしてみた。最近立て続けに、物心ついた頃から住み育った家と、今は亡き家族の夢を見た事もある。そして、私の一存ではどうしても残して貰えず、引っ越し後、あっという間に取り壊されてしまった家が、この地図上では写っていたからだ。

 しかし、どうしても見つからない。。。あれ? と思い、落ち着いてもう一度良く見てみると、かつての敷地に家が2軒建っていた。今年3月に見に行ったので、1軒だけ建築に取り掛かっているのは確認していたのだが、なんと、もう2軒とも完成していたのか……

 Google Mapは世界中の地図を網羅している様だったので、そうすぐには更新されないだろうと、たかをくくっていたが、結構こまめに更新している様だ。

  参考までに、Google Earthというものをダウンロードすると、色んな地域を3Dで色んな角度で見る事が出来、それこそ、居ながらにして世界旅行気分が楽しめるという凄いものもある(しかも無料)。ちなみに、この機能には、宇宙へ視点を向ける機能もあり、色んな星や星雲を旅する事も出来そうだ。

2008-07-21

2008/07/21(月・祝) 地デジとエコ

 数年前から、『2011年から、全てのテレビ放送は地上デジタルテレビジョン放送(地デジ)になり、地上アナログ放送は終了する』というお知らせがTVでも流れている。そうなると、今、使っているTVはもう使えなくなる、とずっと思っていた。エコだエコだと言われ始めて久しいのに、これによって恐らく地デジ放送開始直前には、(地デジでなければ)まだ普通に使えるTVが、大量廃棄される事になり、エコと逆行しているではないか、と非常な疑問を持っていた。勿体ない……

 しかし、皆さんは、現在のTVでも、専用チューナーを接続すると地デジを受信出来る事をご存じであろうか?

 うちでは母と(互いに発病する以前の話だが)、ぎりぎりまで買い替えは見合わせて、TVの値段が落ち着くまで様子を見ようと話し合っていたが、母は急逝し、諸般の事情で、去年引っ越さざるを得なくなった。今迄大学院通学の為、2回程下宿を引っ越した経験があるが、どこで嗅ぎつけるのか、引っ越すと間もなくNHKの職員が受信料契約を求めて、ベルを鳴らしてきた。今回も然りであるが、家一軒分を畳んで引っ越してきた事もあり、まだ荷物の山(今もだが…)。下宿時に使っていた白黒TV(病院で入院患者が使う様な小さなタイプで、コンセントに差し込んで本体からアンテナの棒を伸ばし画像の一番いい所へ向きを合わすという非常に古いタイプのTV)を使っていたので、白黒の契約をと言うと、NHKさんは「現在は白黒契約が無くなり、カラー放送受信一本になりました」との事。以前の下宿時に、白黒契約の方が、カラーより安いという事を知っていたから言ってみたのだが、無くなった理由は玄関先の職員さんに聞いても分からなかった。いずれカラーTVを接続する事は分かっていたので、カラー契約をしながら、職員さんに、2011年に地デジというものになった場合は、契約はどうなるかを訊いてみた。

 確か、衛星放送受信追加とか受信契約内容が変わらなければ、受信料は変わらないと聞いたと思うが、地デジ対応のTVは廃棄処分するしか方法はないのかを訊いてみると、現行のTVに地デジ専用のチューナーを接続すると、地デジも受信出来るという(ビデオ端子か音声端子の所を使うらしい)。念の為に、おんぼろの白黒TVでも可能かを更に訊いてみると、アンテナ端子があれば、それを使うのもあるという。という事は、廃棄せずに今のTVを使い続ける事が出来るのか!!

 ここで書きたい事は、私に限らず、地デジが始まったら、今のTVが使えなくなると思い込んでいる人は多いのではないか、という事だ。チューナーさえあれば地デジ放送も受信出来るのである。チューナーに接続すると、内蔵型TVに比べると操作の点で、少し不便が生じるらしいが、それでも全く新しいのを購入するのとチューナーとでは、負担的にも大きな差がある。慌てて買い替えなくても、余裕のある時に買えるのである。廃棄ゴミも一時に集中せず減らせるのではないだろうか? 

 消費によって経済効果も上がるかもしれないが、無駄な消費には疑問を感じる。多くの資源を自国外に頼る日本には、もっと物を大切に使う精神を養うのも必要ではないだろうか。ひいてはそれもエコにつながるではないか? そして何よりも、何故CMでは、このチューナーの存在をもっと宣伝しないのだろうか? 私みたいな思い違いの人が多くいるのではないだろうか。

  私と同じ勘違いをしている人に、今一度お知らせすると、地デジ放送が始まると、アナログ放送が完全になくなるので、今使っているTVでは映らなくなるらしいが、専用チューナーさえあれば、取り敢えずは、そのまま今のTVでも地デジを受信出来るという事だ。買い替える、取り敢えずチューナーで間に合わせる、は消費者の自由だ。ご参考までに。


2008/07/24追記:
 7/24は2011年地デジ放送開始の丁度3年前との事。NHKで私が疑問に思って書いたチューナーの話等も説明をしていた。今後、アナログ放送完全終了(地デジ移行)の啓発を他局も含め、行なっていくそうだ。ちょっと書くタイミングが悪かったみたいだ。

 今後の心配としては、地デジを良く理解しきれていない人へ、違法に高い地デジチューナーを売り付ける悪徳商法が発生しないだろうか、という事かも……(それとも心配し過ぎ??)

2008-07-16

2008/07/14(月) 教員採用試験不正の波紋

 7月に入ってから、巷のニュースでは、大分県教委汚職事件が大きく取り沙汰されている。この事件、大分だけでは治まらず、全国の教育委員会に飛び火するのは必至だろう。何故なら、こういった類の問題は、既に20年以上前からあったと思われるからである。だから、この問題、単に1県だけでの事件として大騒ぎする所では済まなくなる程の、重大な問題へと発展する様な気がしてならない。

 自分は教育学部ではないが、教員免許を取得している。卒業後は、小学校ではないが、高校等の非常勤講師等をしながら、何回か市の教員採用試験を受けた事がある。受験前には、講師仲間や先輩教員から、過去問とか、試験勉強のポイント、或いは「常勤講師の方が、絶対に有利であるから(即ち、より、教師になる意欲があるとみて貰える可能性があるから)、常勤になった方が良い」とか色々アドヴァイスも受けた。

 常勤講師の時は、同じく常勤で、教員採用試験を何回も受けていた同僚の話は印象的だった。「教員試験なんて、無いも同然、コネの力が多大」と断言した彼女は隣県から通勤していたが、「今はK市で常勤をしているからK市の教員採用試験を受けるのが断然有利なので、(地元ではなく)K市の試験を受けている」のだという。

 “親が教員の人は有利らしい”だとか、“教育委員会に知り合いがいると(特に、直接顔見知りになって、気に入って貰えると)合格し易いらしい”とかいう話が、まことしやかに囁かれているのもよく聞いた。更に、そんなこんなの話を親に話すと、それはあってはならない事ではあるが、昔から似た様な話は(教員に限らず)良く聞く話だ、といって、色んな話をしてくれた様に思う。つまり、そういった傾向ははるか昔から存在しているのだと言えるかもしれない。

 最初に非常勤した所の先輩先生は、同期で教育委員会へ異動している先生を、「教員になるつもりなら、顔見知りになっておいて不利はないから」と気を遣って、教科での飲み会(学期末の打ち上げ)の時に連れてきて、引き合わせて貰った事もある。その後その教育委員会の先生とは、年度末になると、次の非常勤・常勤捜しの問い合わせで電話があったり、時には、有能な教員候補を私が紹介した事もある。

 この教育委員会の先生とは、紹介して下さった先生を交えて、もう一度位(試験面接時以外で)会った覚えがあるが、何で呼び出されたのだろうと思っていくと、雑談に始まり、今年も採用試験を受けるのかというまじめな話になり、その続きの様な感じで、不意に、「知り合いに適齢期の良い男性教師がいるのだが、どうでしょうか?」と、暗に見合いを勧められた事があった。いきなりで正直戸惑ってしまい、出来るだけ丁寧に当たり障りなくお断りしたつもりであるが、採用試験を控えている者に対して、教育委員会に属する先生が、一体どういうつもりで、この話を持ち出されたのか、未だ理解に苦しむ。

 話は逸れるが、自分自身が講師になる迄は全然認識していなかったのだが、学校の先生の中には、自分を含め、まだ正教員でない、いわば派遣の様な形の先生が、ごく普通に、どの学校にも(自分の想像以上に)いるという事に驚いたものである。退職後の教師など例外はあるだろうが、その多くは大学で免許を取得後、採用試験受験を目指しながら現場で教えている、自分と同じ非常勤や常勤講師で、教師の卵達である。しかし講師の勤め口は、来年はあるかどうか保証されていないのが実状で、常勤講師等は、正教員と全く同じ仕事量なのに、採用試験勉強もしなければならず、給料等、割に合わない、とぼやく人も多かった。また、受験に年齢制限もあり、とうとう諦めてどこかへ職を探す人も多いという。

 採用試験でも、“今年は体力検査も取り入れる事にした”と変えられた事がある。今はあるかどうか知らないが、確か、他所の採用試験で実施し始めたから、市の教育委員会でもやる事になったと聞いた。より万能な教員を得る為か、ふるいにかける為か知らないが、やる事が安易である。その為、体育の先生希望者でなくても、受験科目になってしまえば仕方がないので、全員体力試験も受けなければならなくなってしまった。

 教科はともかくも運動全般はそこそこ出来る自信はあったので、私にとってはここで出来るだけ点数を稼ごうと(恥かしながら)思って受験に臨んだが、受験は夏休み初めの、非常に暑い時期にある。毎年、筆記試験だけでも暑くて疲れてしまうのに、運動能力試験も蒸し暑い体育館の中で行われ、自分は、それでも各種こなしていったが、もう暑くてくたくたである。受験者の中には太っていて、運動は何年もしていなさそうな受験者が、汗だくになって必死に坂上がりをしようと頑張っていたが、とうとう一回も出来ないうちに時間切れになってしまって肩を落としているのを見ると、ますます教育委員会のする事に、不審を抱いてきたのを思い出す。

 ちょっと話が脱線してしまった。私の場合、学校の授業の下調べや準備、テストや成績付け等と、採用試験勉強を両立する事が下手で(要するに出来が悪かった為)、結局合格はしなかったが、何年か現場で教員をしていると、何故この先生が採用試験に受からないのか、とか、どう考えてもすべった筈の人が採用されたらしいよ、という話を実際に見たり聞いたりする事は少なからずあった。

 たとえ金品の受け渡しが無かったにしても、万事、こんな調子なのだから、今回の事件の様な体質が、大分以外の他府県には無い(残っていない)と、どうして考えられるだろうか? だから、これを突けば突く程、相当数の不正が上がってくるのは避けられないと思う。逆に、全ての教育委員会でそうだとは思っていないが、もし、これ以上大して出てこなければ、教育委員会内で事実をもみ消してしまっていると考えてもいいかもしれない、とまで思ってしまう。

 この不正採用を知らずに教員になってしまっている人もいるだろう。実力だけで十分合格していた人もいるだろう。不正を知った上で教員になっている人もいるかもしれない。そして不正の有無にかかわらず、優秀な教員もいれば、問題行動を起こす教員もいるだろう。その一方で、正教員を目指しながら、現場で教えている講師も多くいる。教員になっている人全員がそうでない事は明らかだが、一部の不正の為に、教師に対する不信が世の中に広がってしまうのは、防がなければならないと思う。

 常勤・非常勤講師であろうと、正教員であろうと、教壇に立てば、先生としての責任のもと、まじめに生徒と向き合っていると思う。少なくとも自分は教える事に精一杯努力した。今回の件で、不正採用がはっきりした教員の採用を取り消されたとニュースで流れたが、既にほぼ1学期教えてきた先生である(どんな人かは知らないが)。そうせざるを得なかったのだろうが、学校の事を一番よく考えなければならない役職についている教育委員会の一部の人がしでかした事が元になっている。不合格者にとっても、既に再受験を目指しているか、諦めてどこかの会社に就職しているかもしれない。子供達にとってのみならず、現役教員を含め、教師を目指す人達にとっても、多大なる被害を与えた結果となったのではないだろうか? 複雑な気分だ。

 これはあくまでも個人的な見解なので、全ての教育委員会がそうだと言っているのではないが、ようやくこういった不正が暴露されたのだから、こんな体質は一日も早く改善される事を望む。不正関係者の処分とかいうが、例えば、採用試験を行なう為には特別な人件費もかかるし、全受験者も受験料を支払っているので、細かい事を言えば、県民や受験生が損害賠償を請求してもおかしくないのではないかと思うのだが、先ずは採用試験が正常に行なわれる様になっていってほしいと思う。そうした上で、“関係者の処分でこの件は終わり”等と安直な解決法を取るのではなく、根本的に不正を正していく事を望んでいる。

2008-07-05

2008/07/ 04 (金) 市川團十郎氏、再入院のニュース

 市川團十郎氏が治療の為、再入院したというニュースが流れた。この方の名前は自分も知っており、2006年に急性白血病(acute leukemia;AL)と分かり入院した折は、色んな人から、俳優の渡辺謙氏の名と共に、この人も白血病(leukemia)を克服して元気に舞台を踏まれているから、という励ましの言葉をよく聞いたものだった。

 ネットで調べると、團十郎氏は、2004年5月に急性前骨髄球性白血病(acute promyelocytic leukemia;APL:M3)で初発入院され、2005年8月に再発(recidivation)で再入院、自身の幹細胞(stem cells)を採取後、再注入する『末梢血幹細胞自家移植』という治療を受け、2006年2月に退院(discharge)されている。二度目の入院時の治療は、抗癌剤(anti-tumor agent)大量投与という、かなり過酷なものだったそうだが、舞台復帰後は、精力的に活動を続けられ、紫綬褒章も受賞されている。ただ、退院後も貧血(anemia)症状が良くならなかったそうである。

 その團十郎氏が、再入院されるというニュースが流れた。再発ではないが、改善しない貧血等の治療も兼ね、妹さんの骨髄移植(bone marrow transplantation;BMT)を受けるという。なんと……。

 貧血治療だけの為に骨髄移植をするとは、知らなかった。というか、今の自分の知識の中には無かったので、最初このニュースを聞いて、本当にそうなのだろうかと思ってしまった。骨髄移植という治療法を選択するとは、きっと相当深刻な貧血なのだろう。こういう書き方をすれば、ファンの方や、同病で闘病されている方々に叱責されるかもしれないが、自分としても、團十郎氏は、無事に白血病を克服された人として、多くの人に希望を与えてくれる人でもあるので、ご本人が再発ではないと言われているのだから、そうである事を願いたい気持ちで一杯である。

 自分の入院中、骨髄移植には、色々とリスク(risk)があり、年齢もその一つと説明を受けた事がある。当然例外は多々あるだろうが、一般に、50歳以上になってくると、体力的にもかなりリスクが高くなってくるので、骨髄移植という治療方法をとるかどうか、慎重になるという(移植成績が高齢になるにつれ落ちてくる)。年齢的にリスクの高くなった人の治療法を訊くと、移植よりは、抗癌剤による化学療法(chemotherapy)とか、確か『末梢血幹細胞移植(peripheral blood stem cell transplantation:PBSCT)』という方法をとったりすると聞いた様に思う。

 自分は何回(計8回を予定されていた)も繰り返される化学療法を無事乗り越えた時点では、まだ非常に体力もあったと思う(治療中盤からは、感染(infection)の危険が少ない時期は、病院の階段を使った階段昇降という自主リハビリ(rehabilitation)で、脚力の衰えを補う訓練もしていたし、先生からも体力維持について褒められる位であった)。そして骨髄移植の大変さも色々先生から説明があり、頭では必死に理解して、とにかく体力勝負だと感じ、無菌室(clean room)でも自主トレを頑張ろうと思ったが、実際は想像以上に過酷で、ひどく厳しいものがあった。移植に移る前に十分体力があった事も、移植後の経過が順調にいった要因のひとつだと自分では思っているが、体力は(自分が予想した以上に)徹底的に奪われた。それでも、多分私の場合は、退院までにリハビリ室に通う必要がなかったので、ダメージは他の(同じく移植を受けた)患者さんよりは、体力が残っていたのだろうと思う。更に余談になるが、退院(discharge)を言われた時の、自分の血液検査の値は、まだ全てが正常ではなく、その状態で退院する事になった。ヘモグロビン(hemoglobin;HGB)を例にとるなら、正常値の下限に何とか達する様になるのには、しばし時間がかかった。ヘモグロビンの値だけ見るのなら貧血状態が続いていた事になる。そして、やっと基準値範囲に入ってきた現在も、貧血を起こす事が、この病気になってからは多い気がする。

 白血病細胞(leukemia cell)が見つからなくなった事を“治癒(recovery)”したとは言わず、“寛解(remission)”という表現をする。入院(hospitalization)した時に紹介された本には、一般にその寛解の目安は、白血病細胞が5%未満になった時(顕微鏡で見て調べるレベルの事)と書いてあった。自分の場合、初発入院後の最初の化学療法コースが終わった時点で、5%未満になっていたので、私は単純に「寛解だー!」喜んでいたが、先生方からはその様な雰囲気が感じられず、2回目の化学療法で、ようやく“一応、寛解”のお言葉を頂いた。その時、何故、前回は寛解と明言して貰えなかったかを訊いてみると、現在では分子レベルで白血病細胞を検出する検査が出来、当病院では、顕微鏡レベル(5%未満)の寛解ではなく、もっと厳しい分子レベルの検査でも検出出来ないレベル(0.01%未満)を目指している(それでも検出されなくなった時に寛解と評価している)と教えて貰ったのを覚えている。分子レベルの検査とは、即ち、顕微鏡で発見出来るレベルよりも更に100倍以上精密なレベルだそうだ。化学療法2回目終了時点で、確か私は0.01%白血病細胞が検出されていたので、“一応”という言葉が付いたのだと、今では理解出来る。

 しかし、そんなこんなを思い出すと、どうしても、61歳になられた團十郎氏が移植を受けるという話を聞くと、非常に大変な事だと心配してしまうのである。

 團十郎氏が、再発したのではないと信じたいが、ある意味、寛解は5%未満なら寛解状態と言えるので、応援している人に心配かけない様に、『再発』とは言わなかったのではないだろうかと、勝手に深く考えてしまうのである(或いは、もし再発の兆しが万が一でもあったとしても、團十郎氏の行かれている病院の寛解の基準は5%未満と設定されているのかもしれない)。更に團十郎氏は「こんなに元気な顔をしているでしょう? 再発で入院するのではないですよ」という様な事を言われているのをTVで見た。とても還暦を過ぎたとは思えない位の凛々しさである。この様子を見ると大変心強い印象を受ける。團十郎氏がどの様な移植を受けるかは知らないが、最近では『ミニ移植』というものも存在し、こちらは勉強不足でよく知らないが、フルでの骨髄移植より体にかかる負担が軽いらしい。いずれにせよ、移植自体は大変な治療なので、無事移植を乗り越え、また舞台へ戻って来られる日が一日でも早く訪れる事を、彼を応援する全国の多くの人と共に祈りたいと思う。そして、通常ならば骨髄提供者としての適応年齢を超えておられる、妹さん、肉親だからこそ提供に踏みきられたのだろう。提供する側(ドナー:donor)の体にかかる負担も大変なものがあると思うので、妹さんのご健康もお祈りしたいと思う。

※関連記事:『2008/10/19 (日) 団十郎氏 退院のニュース

2008-07-03

2008/06/30 (月)通院記録 移植600日

 この4週間の体調は、相変わらずで、のど・頸・腰・手足の指の関節が痛く、時に肘・肩・背中の痛みや筋肉痛(myalgia)、こむら返り(twist、leg cramp)や脚のつりもしばしば起こる。前回から記録開始した嚥下(deglutition)時の違和感は、ほぼ1日に1回は感じる事があり、時々右耳がボーッとする事も相変わらず。血圧(blood pressure)は今回ネオーラル(Neoral)を再開して以降、副作用(side effect)で以前の様に高くなるかと思ったが、今回はそういう傾向は無く、こちらも相変わらず低い(高い方が80前後、高くても90未満、低い方が55~60位)。脈も55からせいぜい60位、体温(body temperature)も35.7~35.9度の時が多い。手持ちの酸化マグネシウム(magnesium oxide)が少なくなってきて、飲まない日が多くなってきたが、便秘(constipation;obstipation)傾向になってきた気がする。全般にだるいのも相変わらずで、毎回同じ事を報告するのが申し訳なくなってくる。

 入院中もそうだったが、会う人にとっては、私の見た目は“元気そう”に見えるらしく、「元気」である事を喜んでくれるので、今は、それをわざわざ否定するのも辛く、基本、「ありがとう、おかげさまで」と、お礼を言う様に心がけている。現に重症ではなく、無事に生活しているのだから、心配してくれている人に、本当の事を言ってもこの痛みがなくなるわけでなし、却って心配かけてしまっては申し訳ない。元気に見えるのは病気に勝っている証拠であろうし、とても幸せな事なので、出来るだけ言わない様に心がけている。が、実際は、だるくしんどい日が多くて、ぼやきたくなる事もある。

 それでも自分の場合は、きっと、だるさのレベルが低く、いい方なのだとも思っているのだが、《痛い・だるい・しんどい等は、人(第3者)に理解して貰えず(見た目にもそう見えない事が多いらしい)、それも辛い要因の一つになる》、という話を色々と聞いてきた事があり、今はそれを我が身でひしひしと感じている。また、長くこの病気に付きあう事になって、それなりに知識も増えてくると、このだるさ等は、どうやら薬のせいではなく、自分の場合、移植(transplantation)が原因の様だと感じる(わかってきた)ので、一体、あとどれ位、このだるさと付き合わなければならないのか、克服出来る(いずれこのだるさが無くなる)日が来るのかすら分からないのが、もどかしい。

 医学的知識も豊富で、若い頃から自らも大病を経験してきた母ならば、少し話しただけで全ての状況を理解してくれただろうし、経験者としてアドヴァイスも得られただろうし、何よりも、たとえ痛みが減らなくても、話の本質を理解して貰える人がいるという事だけで、凄い心の支えになったと思うのだが、母は先に逝ってしまった。逆に今の自分なら、母が晩年、訴えていた痛さやだるさ(やるせない程だるいとよく言っていた)も、きっと前よりももっと理解してあげる事が出来ただろうと思う。

  私はずっと母の症状や様子を間近で見てきたので、他の人よりは理解していた方だと思っているが、母の話を聞いて、痛いと言っている背中や脚をさすってあげる事しか出来なかった。そして母は“ありがとう、楽になった”、“疲れただろうからもういい”と気を遣って、中断させられる事が多かった。それでも喜んでくれている様だったので、帰るといつもそうしていた。私も雑談に始まり、体調不良等の相談もしていた。病気について本当の事を話せ、かつ真の意味で理解してくれる人は、なかなかいないものである。万事、そういったものなのだろう。(と、つい、またぼやいてしまう。気を付けねば。。。)

 さて、今回の血液検査項目も、ほぼ順調で異常なしと言われた。アミラーゼ(amylase:AMY)だけ、また少し、前回より高くなっていたが、先生は何もおっしゃらないので、私の場合、これ位(の上昇)は心配ないですかと訊くと、私の場合、アミラーゼアイソザイムの検査で唾液由来(比率が正常)だったので、心配要らない程度の上昇、との事(アイソザイムについての詳細は『2008/02/27 (水) アミラーゼの検査結果』の項参照)。会社等の健診なら、間違いなく再検査を仰せつかるだろうが……。まあ、病気によって、あるいはその時の症状によって、今何を一番注意してみるべきなのか、の基準が違ってくるのだろう。経験を積んだ先生なので、そう言って貰えると、そういうものなのだと、安心する。※あくまでも私の場合はそう言われただけなので、一般の方は基準値を指標にして貰いたい。

 ここ数回ずっと、肝機能(liver function)検査の値は、年末年始の値が夢だったのではないかと思われる位、非常に正常値ど真ん中である。先生は飲酒の許可は出して下さらないので、『時々自主解禁』することを宣言して、ごくたまに飲んだりしたのだが、この値を見ると嬉しくて、「もう毎晩晩酌をしてもいいですかね?!」等と、つい言ってしまい、先生を困らせてしまう。そして免疫抑制剤(immunosuppressant)のネオーラルは、現状維持(25mg/日)のままでいく事になる。もちろん、万が一、ネオーラル中止を言われたら、去年の事もあるので、もう少し25mgを続けて貰う様にお願いするつもりであったが……。そして、痛み止めのロキソニン(Loxonin)を増やして貰えないかを毎度の如く、訊いてみるが、こちらは1日2錠までと、あっさり変更無し。ただ、肝臓を守る為にと処方されていたウルソ(Urso)錠は、もはや必要ないだろうからと、こちらは終了となった。

 主治医のKB先生は、PC画面でカルテを調べながら「移植して何日位になるのかなぁ」と言われたので、「今日で丁度移植600日になります」と私も手帳を見ながら答えると、「移植丸2年になる11月には、薬を全て終わらせたいですね」と言われた。だる痛は続いてはいるが、今度こそ、そうなる可能性が高くなってきた気がする。

 入院中もそうだったが、先生には色んな質問をしてきた。分からない事や疑問に思う事はすぐに訊いてみた。今は通院なので、入院中みたいにほぼ毎日顔を合わせる事もないので、訊きたい時に訊く事は出来ない。また診察が混んでいると、全部聞かずに、次回にする事もある。母がいない今、専門的な事を訊けるのは、先生だけなので、つい欲張って訊いてしまう。ありがとうございます、そして今後も宜しくお願い致します、と心の中でつぶやく。

【血液検査の結果】6/30:
WBC(白血球数) 4.1、HGB(ヘモグロビン) 11.4、PLT(血小板数) 180、
GOT(AST) 25、GPT(ALT) 12、γ-GTP 25、LDH 222、AMY 154(高い)

2008-06-15

2008/06/12 (木) アジサイとアマリリス

 伯母からの着信があった。いつも心配して、「元気?」と電話を下さるのが、とてもうれしく、春先に引越後、やっとと言うかようやく伯母の家へドライブして、ベランダで咲いてくれた蘭の花をお土産に元気な顔を見せに行った事がある。

 着信に気が付いたのが遅かったので、翌日お電話を差し上げると、とても珍しいアマリリスの花が咲いているから、分けてあげるという。前回、アッツザクラを分けて貰って私がすごく喜んだのを覚えていて下さったのだろう。

 早速、次の日、お花を見せてもらいに行く事にした。今ベランダではかろうじて小さな紫のバラが一輪だけ咲いていたので、申し訳程度とは思いつつ、切り花にして持って行った。

 伯母さんは相変わらずお元気そうで、彼女の明るい笑顔を見ると、なんだか私も嬉しくなる。アマリリスは何年ぶりに見ただろうか……以外と背の高く大きな花に驚き見とれてしまった。おじさんもにこにこされながら、スコップやハサミを持ってきて下さる。結局このアマリリスは鉢ごと貰う事になり、車に積み込むと、伯母は、アジサイも今咲いているから切ってあげると裏庭の方へ私を導く。色んな種類のアジサイを切り花にしてくれ、にわかに華やかな花束が出来上がった。昔、母と共に遊びに行った折も、伯母宅から色んなアジサイを分けて貰ったが、結局、1種類しか根付かなかった。しかし、引っ越し後の小さなベランダで、アジサイは(花を咲かすほど大きく)育てられないと思い、持ってこなかったのを、引っ越し後、内心さびしく思っていた。

 今アジサイは、台所でとても美しく咲いている。花が終わったら挿し木にしてみようかしらん?

2008-06-14

2008/06/06 (金) 青蓮院

 日にちは前後するが、先週、ひょんな事からK都の青蓮院を拝観する機会を得た。友人から頼まれ、生まれて初めてのコンサートの受け付け手伝いをする事になり、受け付け開始まで時間があったので、それが始まる前の小一時間ばかり、真向かいにある青蓮院を拝観してみたのだ。確か、まだ小さい頃、父に連れられて行った事があり、緑が綺麗だったという記憶がある。

 昔から新緑の季節は大好きで、特にお気に入りは、鴨川の上賀茂神社へ至る道の、夢見る様に芽吹き始めた頃の木々(街路樹)で、新緑の季節になると、よくドライブしたものだった。3月末の緊急入院後、第一段階の化学療法を終え、やっと外泊許可が出た折、迎えに来てくれた次姉に頼んで、家に帰る前にドライブして貰った時は、誰にも言わなかったが、治療や今後の不安(来年は果たして見られるかどうか分からないという思い)から、涙で滲んで、よく見えなかったっけ。

 青蓮院の内部や庭は全然覚えていなかったが、木々はまだ新緑に包まれ、とても美しかった。内部は国宝(不動明王画像)のあるところも含め、どの部屋(間)も大きく戸が開け放たれており、国宝のある所だけお坊さんがおられ、何やらお仕事をされていた。どの間もなかなか渋くて私の好みであったが、薄暗い所にほのかに見える、いかにも古そうな不動明王画像は、特に額縁に入れられるわけでなく、K都なのに湿気でカビたりしてしまわないだろうか、と勝手に心配ながら、その前に私が佇んでいると(その時はまだ国宝とは知らなかった)、そのお坊さんが色々とお話をして下さったので、しばし休憩。

 その後、庭園を散策するコースになっており、順路に沿って庭から建物を見たり、庭を見たり。池では、とても大きな錦鯉がゆったりと泳いでいたので、つい、かしわ手の様に手を打って鯉を呼び寄せてみたりした。昔みたいに触ってみたかったが、そこは我慢。K都ではこんなに緑が、寺院に限らずあちらこちらにあるのに、いま住んでいる所は圧倒的に緑が少ないのがさびしい(まだ近辺を良く知らないせいもあるのだが)。だから、と、一杯新緑を楽しむ。

 敷地内に作られた小路を上ると、小さな石の鳥居があった。鳥居には小石が一杯のっていて、今にもこぼれ落ちそうな所もある。最近の人は何故小石がのっているのか知っているだろうか? これは願掛けなのだと、幼い頃、母親から教えて貰った事がある。鳥居の下から願いを込めて小石を上へ放り投げ、鳥居にひょいっとのっける事が出来たら願いが叶う、のらなかったり、既にのっている石を自分の投げた石で落してしまったりすると願いは叶わないのだそうだ。それを聞いてからは、鳥居を見つけると石を放ってのっけたくなり(背伸びして手の届く様な小さな鳥居でも、とにかく放り上げて載せなければ願掛けにならないとも聞いていた)、万が一、先に他の人がのせた石を落してしまった場合は、その石ももう一度鳥居にのるまで、放り上げ…、子どもにとって、格好のお遊びだったのかもしれない。また鳥居に石をのせてみたいという衝動に駆られつつも、今回はおとなしく止めておく事にした。。。

 ある夏休み等は毎朝ラジオ体操をしに神社へ行く度に、入口の大鳥居に小石がのっかる迄、放り続けるのを日課としていたものだ。その近所にある神社の鳥居はこの写真の鳥居とは違い、非常に高く、当時の自分の身長の4~5倍位あったと思う。つまり、石をのせるのにかなり苦労した…… そしてその夏は、神社の他に、お地蔵さまにも西洋の神様にもお祈りをしたのを思い出す。一体何をそんなに熱心に願掛けしたって? 今を思えば、実に小学生の子供らしい無邪気なお願いだった。そして、(あちこちの神様にお願いしていたので)どこの神様かは知らないけれど、その願いは見事叶えて下さった。

  どんなに願ってもお祈りしても、叶わない事は当然多々あると、分かってはいるが、そんな経験があったので、願掛けや御百度参りとかは、あながち嘘、迷信とも言い切れないな、と思っている。

2008-06-09

2008/06/ 09(月) 秋葉原で通り魔

 昨日、秋葉原で通り魔事件が発生した。僅か数分間で17人も殺傷され、内7人もの尊い命が奪われている。日曜昼下がりの、楽しい休日を過ごしていたであろう、何の罪もない人々を、無差別に……人の命を何と思っているのだろうか。

 最近に限ったことではないが、何故か大きな事件(それだけニュースへの露出が多いだけかもしれないが)が起こると、連鎖する傾向がある気がする。例えば、旅客機の墜落事故が起こると、その前後にも世界のどこかで大きな飛行機事故が相次ぐ事がある。これは不慮の事故というか、不可抗力に近いものが多いと思う。その一方で、練炭による集団自殺が起こると、連鎖するかの如くあちこちで同様の自殺(suicide)が起こり、洗剤を混ぜて発生させるガスでの自殺が起こると、これまた同様の自殺が各地で起こる。まるで流行するかの如く、自らの命を絶っていく。不条理な通り魔事件が起こった時も、悲しきかな、その後しばらく、似た様な事件が起こっているという記憶がある。これは飛行機事故同様、巻き込まれた人達は悲劇である。

 そして今回、非常に短時間のうちに尋常でない数の多くの人々が、襲われて犠牲になってしまった。これは被害者の17名にとどまらず、そのご家族・友人、居合わせた多くの人々、この事件を知った多くの人々にも深い傷を与えてしまっている。どうぞ、こんな事件、真似をする人が現われません様に、連鎖が起こりません様にと祈るばかりである。

  この事件に巻き込まれ、不幸にも命を落とされた方々に心から哀悼の意を表すると共に、襲われ甚大な負傷を追われた方々の、一日も早いご回復をお祈り致します。

2008-04-08

2008/04/07 (月) ネコのタマ

 K都に行った折、少しだけ時間があったので、猫に会いに行った。もう随分会っていない。母が病に伏してから飼いたいと言い出して、貰ってきた仔だ。母亡き後、未だ入院中で生モノ・動物禁止中だった私には飼えなかった。この仔を連れてきた人が引き取ってくれた。入院中に母が亡くなり、母の可愛がっていたこの仔までいなくなってしまうのが辛くて辛くて、病院のベッドで独り、涙を堪えていたのを思い出す。

 私を覚えているのかいないのか、近づくとちょっと距離を置いて、ビデオデッキの角で顔をスリスリしている。もともと抱かれるのが嫌いな仔だったが、母が就寝する時は明け方に母の眠りを邪魔しない様にと、どんだけ逃げ回ろうと私が捕まえて、下の台所へ連れて行くのが日課だった。母の部屋では冷たい仔だったが、母就寝後は台所でこの仔としばし遊んだり、撫でてゴロゴロと言わせるのが楽しみだった。今日も、昔の様に有無を言わさず抱き上げ、ちょっとだけぎゅっと抱きしめてきた。

 すっかり、ここのおうちの仔になったね。君は幸せかい?

2008-04-01

080401(火) アッツザクラ

 2つ隣の町に住んでおられる伯母(母のすぐ上の姉)に、日曜日に貰ったお菓子等をおすそ分けしに行こうと思い立ち、今年最初に咲いた、亡き母の育てていた蘭の花も切り花にして車に乗り込んだ。

 取り敢えず目的地の近くまで、まだ馴染んでいないこの土地の風景を眺めながら、運転していく事にした。あちらこちらで桜が結構綺麗に咲いている。面白そうなお店も発見する。ちょっと渋滞していて、ちょっと迷って、小一時間程かかってようやく伯母の家にたどりつく。出発前に電話をしたが、その時は不在だった。もしお留守でも、玄関先にお花とお菓子を置いて帰ろうと思っていた。しかし幸運にも帰宅したばかりという伯母に会え、伯母も喜んで下さった。

 この伯母はとても優しい人で、私の退院後も未だに『元気にしている?』と何週間に一回か、電話をかけてきて下さり、それがとてもうれしく、どれだけ励まされている事か(伯母様もご主人の具合が悪く、色々大変と聞いているのだが)。亡き母も、この伯母の事は、本当に心優しい人と口癖の様に言っていたのを思い出す。いつも励まされてばかりなので、今日は母の蘭の花を届けたく、訪ねてみたのだった。

 本当に久しぶりにおとずれた伯母の家(母と一緒に車で行った記憶しかないから、前回訪問からもう随分と経つ事になる)の前には小さな白いお花が一面に咲いていた。余りに可愛らしいので何という名前かと聞くと『アッツザクラ』という。名前は聞いた事があるが、それがこの花の事とは知らなかった。見れば見る程、可憐な草花なので、ベランダの植物の仲間に加えたく思い、伯母にお願いして、その株を分けて貰う事にした。伯母は日陰に生えている、まだ花の咲いていない株を掘ってくれ、ついでに桜やレンギョウの枝も数本折って下さった。


  立ち話少々だけで失礼したのだが、ビルに戻った後、瓶に桜とレンギョウを生けたら、台所が一気に春爛漫。またまた叔母から元気を頂いてしまった。

2008-03-27

2008/03/27 (木) 初発入院後、丸2年

 ALL(acute lymphocytic leukemia;急性リンパ性白血病)と診断され緊急入院してから、今日で丸2年である。様々な人のお世話になった。お陰さまで無事退院出来、応援し、助けてくれたみんなに感謝している。

 しかし、本当に色んな事が怒涛の如く起こった2年でもある。

 今後は無事平穏に過ごせます様に。。。

2008/03/24 (月) S学院の家の跡地に行く


 診察を終え、歯医者さんへ行く前に、実家の跡地を見にS学院へ立ち寄る。



  庭があったあたりから、黄水仙が一輪、けなげに咲いていた。

2008-02-10

2008/02/09(土) 雪模様

 今朝は非常に寒いと思ったら、雪が降っていた。引っ越し先のこの地は海岸線近く、K戸市の東南、私イメージではあまり雪が降る事がないし、舞う事があっても積もる事は殆んど無い様な気がする。

 今日は一日中降り続き、珍しく家々の屋根が雪化粧をするまでになった。きれいだ。

 昔から雪は好きだ。長年住んでいたS学院はここに比べるとはるかに寒い。一面銀世界になることもしばしばあった。きっと今日はかなりの積雪になっているのではないだろうか。あの雪景色をまた見たくなった。

2008-01-27

2008/01/27(日) iPS細胞と角膜

 最近注目しているiPS細胞 (induced pluripotent stem cells、人工多能性幹細胞)のニュースで、マウスの体細胞(somatic cell)から角膜(cornea)になる前段階の幹細胞(stem cell)にまで分化させる事に成功したという記事を読んだ。実は今まで角膜は拒絶反応(rejection)がないから一番移植(transplantation)し易いと思っていたのだが、この記事の中で、拒絶反応があるという事を初めて知った。

 ところで昔から臓器提供の意思表示カードは持ってはいたが、当時まだ始まったばかりでよく分からない点も多かった事もあり、どの臓器にするか等を具体的に書き込むには至らなかった。色々思う所もあったが、それでも角膜や骨髄(bone marrow)ならバンクに登録しても良いと思っていた。骨髄は登録の数を増やす意味と何より自分が死ななくても自分の意思で提供出来、提供した骨髄は血液の様にまた元の量に戻るという点で脳死(brain death)の様な複雑な事情もないと思ったし、角膜なら拒絶反応がないと思い込んでいたからだ。

 私が白血病(leukemia)になって骨髄移植(bone marrow transplantation;BMT)が必要となった時、姉達の他、数名がすぐに登録してくれたそうで、その気持ちがとてもありがたく励ましになった。姉達は臓器提供意思カードも持ち歩いていて、色んな臓器に丸印が付いていた。しかし現在の私は白血病になった為、もうどの臓器も提供は無理で、献血(blood donation)も出来ない。しかし角膜だけは提供出来るのではと思って、日本アイバンク協会のHP(http://www.j-eyebank.or.jp/ )を見てみた。すると、眼内の癌・白血病の人は提供出来ないと明記されており、やはりという気持ちで少し落胆した。

  最近は、iPS細胞といった研究等が進歩して、免疫拒絶のない自分の細胞から必要な代替細胞が作れる様になり、将来△◇バンク等を作る必要のない世界が来る様になればいいなぁ~っと、思っている。今後、万が一再発した時、もしiPS細胞関連で治験(clinical trial)があれば、出来ればそれを受けて、一日でも早い安全な臨床適用の為の研究に役立ちたいとまで、この研究に期待している。