2008-11-14

2008/11/11 (火) 難しい見舞いの言葉

 ドラマ『白い影』が再放送されていて、久しぶりに見ている。原作は渡辺淳一の「無影燈」で、かつて母に勧められて読んだ覚えがあるが、昔の事なので、詳しい内容はあまり覚えていない。ただ、自ら医者という経歴を持つ渡辺淳一の医療を扱った小説は、非常に良く出来ているという母の言葉通り、医療を題材にした作品は、どれも面白かったという記憶はある。

 物語は、若い医師が、主人公である直江医師のやり方・考え方に反感を覚えながら、次第に直江医師の人間性に惹かれていくのだが、実は直江医師自身末期癌に侵されている事を隠して医師として患者の治療に当たっている、というストーリである。物語の伏線として、ある末期癌患者が登場するが、どれだけ病状が悪化してきても、直江医師は患者に癌(cancer)で余命幾ばくもない事を告知せず、「悪い所は全て取り除きました」といって接し続ける事に、若い医師の方は、何故本当の事を患者に教えないのかと反発しているという所があった。昔は「癌=死」というイメージが強かった。現在では癌の治癒率が高まり、癌告知はかなり多くなった様に思われるが、原作が書かれた当時は、確か、医師が患者に癌告知するか否か、深刻な問題であった時代だったと思う。そのTV版を漫然と見ていたのだが、ふと、次のセリフが耳に留まった。

 若い医師がその末期癌患者と会話を交わし、(取り敢えず)元気そうなのを確認してから、「頑張って下さいね」といって病室を去ろうとした時、患者がぽつりと「直江先生ならいつも『大丈夫ですよ』と声掛けをして下さる。」「病院の人はみんな、頑張れ頑張れというが、患者は皆、言われなくても、みな頑張っているんですよ」と言われ、その言葉に若い医師がハッとする、そんな場面であった。

 これと似た話は、時々聞く事がある。例えば、「がんばって」と言われるより、「辛いね…、苦しいんだね…」と相槌を打ちながら、話を聞いてくれた人がいて、辛さが和らぐ程とてもうれしかったという話も聞いた事がある。もちろん、十人十色という言葉がある様に、この「がんばって」という言葉を励みに闘病に励まれる人も多いだろうから、全てにおいてこの言葉を悪いと考えているのではないが、この様に「頑張って」と言われるのが辛いという話は少なくない様だ。これが別に病人に限った事ではないと知ってからは、不用意に「がんばって」という言葉を使わない事にしようと思う様になった。しかし、医者でもない私が「大丈夫ですよ」とか「大丈夫、大丈夫」等と声をかけるのも、なんだか無責任な感じもするので、状況をよく見極めた上で、その言葉を使っていいかどうか判断した方がいいかもしれない。

 晩年の母が時折「見舞いに来てくれる人の心遣いは嬉しいが…、皆が皆、『元気そう』といってくれる気持ちも分からなくないではないが…、この何とも言えない痛さ、だるさというのを本当に理解してくれる人は少ない…、時々何ともやりきれなくなる」といった内容をぼやいていた事がある。まだ癌になる前の、別の病気での自宅闘病中の事である。もちろん母はその事をわざわざ見舞いに来てくれる人にそんな事を言う気もない人で、私にも心配かけまいと、簡単に弱音を吐かない人であったが、余りに痛みが続くらしい時等に、つい、ぼやきの様に私に話す事があった。「この痛い、というのは表面(顔・表情など)から見えないから仕方がないけれど…」と。この話を聞いて、当時頭では理解していたつもりだったが、自分も病気をして以来、まだまだ理解の度合いが足りなかったなと感じる。副作用(side effect)といえばいいのかGVHD(移植片対宿主病;graft-versus-host disease)と考えればいいのかよく分からない、この持続する痛み(それでも母が経験していた痛みと比べると、はるかにはるかに軽いと思われる)に悩まされる様になって初めて、今なら、もっと母の気持ちを理解してあげられただろうに、と思ってしまう。だから、『元気そう』という言葉も不用意に使わない様にした方がいいなと思っている。でも、そうなるとどんな励ましの言葉があるだろうか、なかなか難しい…。

 「頑張って」とか「元気そうで良かった」という言葉は、心底心配してくれている人が、見舞った相手の元気そうな顔を見て安堵して、心から喜んで発してくれるお見舞いの言葉なのかもしれない。私も入院中から現在に至るまで一杯かけて貰った言葉で、わざわざ見舞ってくれた事が嬉しく、ありがたく受け止めていた。ただ、どうしても嫌な言葉があった。「前向きに頑張って」とか「前向きに考えよう」という言葉だ。私を励ますつもりで発せられた言葉とは十分に分かってはいるのだが、こう言われると、なんだか自分が病気に対して後ろ向きで、治療にもちゃんと向き合っていないと言われている様な気がして、内心、耐えられなかった。日々体が不自由になる母の為にも、一日でも早く退院出来る様にと必死に励んでいるのに、それを全否定されている様に感じてしまうからだ。さすがに、一番自分の状況を理解してくれている筈の母からこれを言われた時ばかりは、つい毒づいてしまった事がある。母をいたわるどころか悲しませてしまった事が今でも悔やまれる。もしかすると、思いもかけない病になってしまった娘の事を、絶対に治ると母自身“前向きに前向きに…”と言い聞かせながら日々お祈りしてくれていて、それが言葉になって出たのかもしれない…。

 その一方で、今や「元気?」「大丈夫?」等と聞かれる立場になった自分はというと、その心配してくれている心遣いに対して、いつも感謝の言葉を返し、要らぬ心配を掛けない様にしている。ちょっと話はそれるが、関西には便利な言葉があり、例えば「儲かってまっか(もうけている・かせいでいる)?」と訊かれたら「ぼちぼちですわ」というのがある。この「ぼちぼちです」のイントネーション(発音や言い方)次第で、『儲かっている』と『かなり苦しい状況(儲かっていない)』の両方を表現出来る。なので、かなり近しい人から「元気にしてる?」等と聞かれた時は、よく「ぼちぼちやってます」(私の場合、「ぼちぼち無事に暮らしています」という意味合いを込めている)と返事する事も多い。

  未だ、誰かを見舞う時等、どの様な言葉を掛けたらよいか、悩ましい所であるが、直江先生が言った「大丈夫ですよ」という言葉、何とも心に響く思いがした。

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